【産社の愛すべき仲間たち】
オレたち同期って、こうして会ってるから良いけど、群馬全体では立命の出身者ってどのくらいなのかなぁ?100人200人?いや、もっと...いるのかなぁ?」「だいいち、そんなのどこに聞いたらわかるんだぃ?卒業生の会なんてそもそもあんのかなぁ?」「そのくらいあるんじゃないの?(...実は当時、群馬県だけ全国で唯一!校友会が存在していなかった。)」「立命の卒業生っていうと、ヤクルトの古田、おしんの小林綾子、TBSの何ていったかなぁ?女子アナ...あとはワシら(笑)、ウーン...そんなところかしか知らんなぁ。」「オィ、石橋!調べてみろや(えっ?...なんでボクが)」
平成7年、師走のあわただしい高崎の街で久しぶりに再会した昭和45年産業社会学部入学組の須藤哲男(桐生高)馬場康夫(前橋高)針塚均(渋川高)松下宏(中央高)そしてボク(高崎高)の5人、立命館を卒業して20年、学生の時から皆そうだったが自己主張がやたら強くてわがまま、他人のことなどまるでお構いなしの懲りない(笑)面々である。でも、みんな仕事には真面目で超がつくほど一生懸命、奥さんや子供を何よりも大切にする、普段から色々なことを相談したりされたりの気のおけない仲間たちであり、今ふうに言えば愛すべきちょいワルおやじユニットと言ったところか。
【校友課ってどんなとこ?】
まぁ、そんな感じでとにかく大学の(それも...自分たちの出た大学の)様子がわからない。恐る恐る(笑)...大学へ電話してみることとなった。校友課というところで課長さんという方が電話に出られた。あまり何か難しそうな話になったら「あっ..いいです。」なんて言って直ぐ切るつもりだった。課長さんの名前は友藤さんといい、その時、校友会のことについて実に親切にわかりやすく教えていただいた、すごく感激した。待てョ待てョ...立命館なんて京都なんて千年の都だか何だか言うけどこんな身近なもんだったんだ?その瞬間、卒業してからの20年の月日、遠くて...やはり遠かった京都の街の学生時代の日常的な光景が頭の中をチラツキはじめたのである。群馬が全国で唯一校友会が存在しないことも知らされ、こうなると(元応援団ならずとも)もう止まらない止められない(笑)、半年後には高崎市とその周辺の校友さんを中心に40名の卒業生が出席し「高崎立命会」が立ち上がったのである。時に平成8年6月22日、現在の「群馬県校友会(当時は群馬県支部と呼んだ)」が立ち上がるその時平成9年7月6日のおよそ1年前のことであった。友藤マジック(笑)の夢見心地から醒めぬままに...一緒に群馬県支部を立ち上げましょう、友藤課長はことあるごとに校友会の素晴しさ、校友会の大切さを熱く語られていた。
【上野村のお姫さま登場!】
そんな日々が続いた夏の終りのある日のこと、勤め先の銀行のデスクに校友という若いお嬢さんから一本の電話が入った。「今井あゆみです、お手伝いできることがあったら言ってください、一緒に支部設立やっていきましょう!」(実名を出してしまって良いのかわからないが...笑)この電話はうれしかった。当時の彼女はあの日航機事故のあった上野村に住んでおり、高崎から車でもたっぷり2時間、群馬は広いそして校友会設立の気運もいよいよワイドになってきたのかという思い、そして何よりも女性が関心を持ってくれていることがわかりうれしかった。以後、何かと彼女と二人三脚でやっていくこととなる。現在、彼女は同じ職場だった(とてもステキな)ご主人と結ばれ2人のお子さんにも恵まれ、若いお母さん世代を代表するかたちで校友会幹事として活躍していただいている。
【そして...その時、校友会誕生!】
県の土木部技監で退職され後に初代支部長となられる高野久さんはじめ学校の先生、ウルトラクイズの元チャンピオン、高島屋のイケメンくん、地元新聞社のプリンスくん、水沢うどんの老舗の御曹子、発会式で司会をつとめたマドンナさんなど校友もなかなかのタレント揃いであり、準備作業も楽しく群馬県校友会が立ち上がるその時に向け機は熟し、そして、いよいよ「平成の時代の発足にふさわしい、世代を超えた花も実もある透明感ある開かれた校友会」を基本的な考え方とする全国最後発の群馬県支部(後の群馬県校友会)が誕生したのであった。時に平成9年7月6日、梅雨の晴れ間の暑かったその日は、しかし、京都と群馬の架け橋が結ばれた歴史的な一日となった。ボクは当時46才、45年入学組の同期会から高崎立命会を経て支部立ち上げ、まさにその時歴史は大きく動いたのであった。ところが、実はその時すでに...意外にも発会式の華やかな会場の雰囲気とは裏腹にボクの胸の中は不安でいっぱいであった。当日の100名近い出席者の母校への溢れんばかりの熱気から当面の支部運営は安定して推移していくものと思われたが、発会式にいたるまでのプロセスはその時点では既に過去のものであり夢物語であり、それを今後将来にわたりどう活かしていくのか?具体的には誰がどんな方向性を持ってやっていくのか?が喫緊といえる課題であったが、勢いだけで継続できるほど組織たるもの甘くは無い、やがて時の経過とともにその不安は現実のものとなっていった。それは、今考えてもホントある些細な取るに足らない勘違いからはじまったのであるが、些細なことで浮き足立つほど当時はやはり未成熟な組織であったのだろう...やがて、それからいくつかの季節が過ぎボクは校友会からしばらくの間距離を置くこととなった。
【校友会、その光と影】
そして、あっという間に10年が経過した。その間、校友会に関連したボクにとっての出来事というと(実は、ボクには娘が2人いて)長女のほうは選択する学部がなく止むを得なかったが、二女にはできたら立命館に進学して欲しいと考えていたのだが、(ボクが校友会と距離を置くことになっていった時期から)現実的な選択肢としてそれが消えていってしまったのである。或る日突然...わが家の中で立命館への進学について誰も話をしなくなってしまったのである。その間の事情については墓場まで持っていく類(たぐい)の話...であるが、あのBKCのグラウンドをそして大学女子駅伝で走っていたかもしれない娘の姿を想像するに、現在(他の)大学の3年生で卒業まであと1年、ボクにとっての校友会の光と影の部分の中であと1年つらい影の部分を引きづっていかなくてはならないのである。たぶん、ボクが校友会とそれほど関わっていなかったら恐らく立命館に入学していた(可能性は高かった)と思う。それは皮肉な話ではあるが、現実でもある。
【群馬県校友会の目指すところ】
2年前、ホームページ開設にあたり会長挨拶の中で「立命館を卒業した良識あり未来ある会員さんたちと、真摯に向かい合い、京都と群馬の架け橋を担いつつ、真の信頼関係の構築を図ることをその目的とする」とした。一部の校友会オタクは論外として、(ボクも含め特に大きくスポットを浴びることもまずない)ほとんどの会員さんにとっての校友会活動に対する期待度、関心度、満足度に対しもっと焦点を当てるべきと考えている。校友会活動の中で校友一人一人の居場所や踊れる場があるのかないのかきちんと丁寧に検証すべきであるし、前回、広報委員長が述べているように、「いっそのこと総会の実行委員を持ち回りでやれば良い。幹事年を決めてスタートし、毎回年度を下げていき会員の多くのメンバーが校友会というものを意識しつつ関わっていく状況をつくっていけば良い」というのも、彼らしい現実的な発想であろう。校友会は誰のものでもない、校友一人一人がそれぞれのレベルで満足感を得られるもの、校友満足度が高いものでなくてはならない。また、50才を過ぎたいわゆるシニア世代の方々には積極的に自らの知識や経験の蓄積を校友会というステージを通して何らかの形で還元していっていただきたい、次の世代の校友さんたちに伝えていっていただきたい、と思う。
【校友会は文化、そして受け継がれるもの】
そこで初めて世代を超えた花も実もある100年続く校友会、いわゆる文化としてのイメージの校友会が視野に入ってくるのだと思う。文化は受け継いでいくもの受け継がれるものであり、受け継がれるものが文化である、とボクは考える。役員会や幹事会が、活性化できない原因をつくっている人たちによる活性化するための議論の場であってはならないし、もはや、そんな感覚のマヒを論じている時代では無い。群馬県校友会の幹事さんたちには相当厳しい注文をつけているが、「明るい自己犠牲」の精神を忘れずにやっていけば、彼らが長い人生の中で校友会活動から得られるものは結果として少なくないはずである。そして、立命館大学を卒業し、母校との係わり合いの中でまだまだ学べるもの吸収できるものがあることを知るのは素晴しいことであるし、校友会はまさしく大学の学びの精神の延長線上であると考える。校友会は文化...とするならば、色々な人たちがいて色々な考えがあって色々な花が咲く、そして文化は受け継がれるものであると考える。
会長 石橋博 (写真は昭和45年に当時の広小路学生会館で)

1月27日(土)に宇都宮市にて栃木県校友会総会に出席してまいりました。初めて宇都宮の街に降り立ってみましたが、さすがは50万都市(正確には47万程度)だけの事はあって駅前大通りや中心商店街のオリオン通りのスケールは高崎や前橋を凌ぐ規模でありました。さて、肝心の総会ですが、栃木県交友の方々や近隣各県、校友会本部からの来賓の方々を含めて30人程の出席でありました。議事はきわめて粛々と進行し、特に講演会といったスタイルのものはありませんでしたが、栃木県校友の方々の近況や立命館の近況等を多数お伺いし、ほのぼのとしたひと時を過ごすことができました。全般的な私の感想としては、栃木県校友会は歴史もあるせいか参加者同士の結びつきが深く、“コクのある”やりとりがなされていてアットホームだなあと感ずる一方で平成16年や18年卒のヤング校友の参加もあり新しい息吹も芽生えているんだなあ、などと感じておりました。又、今回の総会では関東校友会にとって大きな収穫がありました。一つは、埼玉県校友会や茨城県校友会の方々と共に11月に東京にて開催予定の全国校友大会を関東全体で盛り上げていきたい旨の相互確認を行えたこと。もう一つは、栃木県校友会がいよいよホームページ立ち上げに本腰を入れていくと名言されたことです。あらためて立命館大学校友会のネットワークの素晴らしさを実感致した次第であります。それから余談ですが、事前の予想通り懇親会終了後は2次会、3次会とありがたく出席させて頂き、19時過ぎに夜の帳が下りた宇都宮の街を後にしたのでありました。
【校友会本部HP】
1月27日(土)午後1時から、栃木県校友会が宇都宮東武ホテルグランデ(出井寿典支配人:S58文)で平成18年度総会・懇親会を開催し約30名が参加した。総会は小林睦男幹事長(S56法)の司会で校歌斉唱、会長挨拶と続き、高野雅文会長(S34文)は「今年の干支、猪は『猪突猛進』と言う言葉もあるが、愛情が深く思いやりがあり、家庭を大事にすると言われている。昨秋の校友大会でも立命館、京都で過ごした思い出や在学当時の気持ち、感情が脈々と沸いてきた。駅伝などでの母校の活躍を誇りに思い、いつまでも母校を愛し、支えていこう」と述べられた。来賓紹介では関東各都県校友会役員、東京オフィスの西田宗旦参与らが紹介され、来賓挨拶で名主川久仁本部事務局長代理が川口清史総長をはじめとした学園の新体制や近況、入試状況、次回校友大会の東京開催などを紹介し、また、参議院議員の国井正幸栃木県校友会顧問(S45文)が母校への思い、益々の活躍を願う気持ちを込めてご挨拶された。議事では小林幹事長から提起、説明された事業決算報告、次期役員体制がいずれも承認された。続いて山下宏夫大先輩(S23理工)から高崎あゆみさん(H18国際関係)までのベテラン・中堅・フレッシュな校友が近況も交えて自己紹介を行ない、各人の話から在学時や現在の意外な縁が再発見されるといった場面もあった。以上で総会を終了し懇親会に移った。懇親会も引き続き小林幹事長が司会を担当し、木村幸夫茨城県校友会長の駅伝での協力への御礼も含めた熱意溢れるご挨拶に続いて、山下先輩と高崎さん、そしてこの日が誕生日という八木輝義さん(H14経営)の3名による乾杯発声でスタートした。それぞれの在学中の思い出や近況など、歓談の声が響き渡り、途中行なわれたPRタイムでは江田聡氏(H4法)や北口英雄氏(S36文)らが近況やこれからの抱負を紹介し、村上正高氏(H12産業社会)は「HPを平成卒中心に立ち上げます」と宣言、高野会長はじめ参加者全員から賛成の拍手がおこった。最後はグレーター立命を合唱し、高野会長の中締めで閉会した。

私と立命館の縁は、浪人時代に「どうせ4年間大学に行くなら、好きな地理を学べる学部に入ろう。」と悟ったことに始まります。全国に地理学科を有する大学は少なく、結果合格した中で最も納得できるのが立命館大学だったのです。しかし、それはそれ、こんな私のことですから、真面目に勉学にいそしんだ様な記憶は殆どなく、むしろ、一度も出席したことのない一般教養の講義の年度末試験に、勤勉なクラスメイトのノートを拝借して一夜漬けで臨み何とA評価をいただいてしまう様な、極めて“大衆的な”大学生でした。下宿は、周りの皆が「大学に通うのに便利だから」とか「寺社仏閣等の名跡に近いから」という様な最もポピュラーな理由で衣笠や嵯峨エリアに住まう中、私は「梅田や河原町にすぐ繰り出せるから」という極めて“俗な”理由により、阪急沿線の西院を選び4年間の学生生活を堪能しました。学生時代の想い出はというと、北は山形、南は熊本と、全国から集った10人ほどの悪友たちと賑やかに過ごしたことや様々なアルバイトをしたことなどが挙げられます。仲間は皆故郷を離れての一人暮らしだったため自然と意気投合し家族の様に親しく過ごし、DCブランドのバーゲンやらコンパやらとパワフルに遊んでおりました。アルバイトも祇園や東山等京都らしいゾーンで色々と試みることができました。私の4年間の京都生活の中での最大の財産は、今でも親交のあるこの10人ほどの仲間たちであると思いますし、また、数々のアルバイト体験であると思っております。また、古の都で日々暮らしながら実感したことは「俺って今、あの京都に住んでいるんだよなぁ・・・。」ということでした。そして卒業を迎え京の街を離れる頃には、心の底から京都が大好きになっておりました。ただ、少しばかりの心残りは、京の名跡めぐりを充分にできなかったことです。ですから、仕事や校友活動、プライベートなど様々な機会で京都に触れる場面をこれからも持っていきたいと思っている近頃です。群馬県校友会の皆様!我々が等しく共有できる京都や立命館の想い出に存分に浸り語らうべく校友会活動に積極的に参加していきましょう!!初めての方でもどうぞ気後れすることなくご参加ください。遠慮なく私・島田にご相談ください。
~島田透プロフィール~
☆ 生年月日 1965年6月1日(41歳)
☆ 血液型 B型
☆ 卒業学部 文学部地理学科
☆ 勤務先 ㈱高崎・膕亜聞盧蟷坩按ョ45 ℡027‐327‐1111)⇒今は、1階ハンカチ・婦人靴下・婦人洋品・傘・財布小物・ハンドバッグ・婦人靴およびティファニー・コーチを担当しております。是非お出掛けください。
☆ 趣味 ・旅行⇒2年前の夏は東北地方へ、昨々夏は北陸地方へ、昨夏は東海地方へと家族旅行に出掛けました。今年は・・・?・スポーツ観戦⇒プロ野球、相撲、F1など
☆ アルコール 大好きです。特に典型的なビール党です。
☆ 好きな言葉 『虚勢を張らない』
☆ 家族 妻・由美子(42歳)、長男・大樹(14歳/中学2年)、長女・加奈子
(13歳/中学1年)、次男・怜旺(5歳/幼稚園年中組)、母・照子(76歳)

ことし9月に開業10周年を迎える京都駅ビル(京都市下京区)が、大幅なリニューアルに動き出す。核商業施設であるジェイアール京都伊勢丹が実質的な増床を開業以来初めて行うほか、駅ビル施設のイメージを高める映画やテレビロケ地の誘致活動事業も始まる。
「京都の玄関口」の刷新は、駅周辺の商業集積や観光利用を加速させる呼び水にもなりそうだ。
伊勢丹は、JR西日本が南北自由通路西側に新築する施設の運営を受託し、2008年1月から営業を始める。施設は鉄骨1-2階建ての延べ床面積約3000平方メートルで、駅西口改札の近くに完成。売り場面積は約2000平方メートルで、食品や雑貨、レストラン店など5、6店舗を誘致し、1日平均約10万人が訪れる駅ビル利用者の取り込みを目指す。
また、観光利用を促す仕掛けも強化する。京都駅観光デパート(同)は、11階の「ザ・キューブレストラン街」を07年3月20日ごろにかけて順次リニューアル。全9店舗を京町家風の外観に統一し、京野菜などを使った限定メニューをそろえる計画だ。
ソフト面の充実も手がける。京都駅ビル開発(同)は4月にも、駅ビルでの映画やテレビ撮影を誘致する「プロモーション&ロケーションサービス・京都駅ビル」を新設。駅ビルはガラス張りの外観などの特異な構造で、外国人観光客らの注目度も高く、年間80件前後のロケ撮影が行われている。同社は専門窓口を置いて円滑なロケ撮影を演出し、駅ビル内での撮影作品の案内放送も行う。映像メディアを通じたイメージアップで駅の観光スポット化を進めるという。
京都駅周辺では、1997年にジェイアール京都伊勢丹が開業し、売上高を年々伸ばしている。今後、家電量販店大手のビックカメラとヨドバシカメラが相次いで進出し、駅南の八条口側ではMID都市開発(旧松下興産)の所有地で、京都府内最大級の商業施設の開発計画が進んでいる。
東京や大阪では、ターミナル駅刷新をきっかけに周辺地域の再開発が活発だ。駅ビルのハード、ソフト両面の充実で、京都駅周辺の商業環境活性化にも一層弾みがつきそうだ。
京都新聞 2007年1月4日
校友会というと、ともすると、一部の長老OBが牛耳っていたり、特定の仲良しグループが私物化していたり、また、男性中心で女性にとっては決して居心地の良くない、それでいて年会費等はしつこく徴収されるといった悪しきイメージがある。
校友会も、目指すはもちろん世代間のバランスのとれた花も実もある魅力的な活動・運営を行っていくことである。年に一度の総会ともなると60代70代の超OBから、卒業間もない平成のヤングたちまで、まさに世代を超えて集まってくる。総会でのあいさつは手短かに、事業報告も会計報告も段取り八分で簡潔明瞭をモットーとしている。皆、母校の話題を酒の肴(さかな)にし一時を過ごしたい仲間ばかりである。皆、本来の仕事や家庭があり母校への思いは二の次、三の次となるが、かけがえのない青春の一ページとしてそれぞれの人生にさわやかな光を投げかけ続けている母校に、そして夢多かりし日々に思いを寄せることは、そのかかわりあいの中で、自らの視野を広め、限りない裾野の拡がりを感じながら、豊かな人生を送ることにつながると思う。
校友会って?...まぁ、一般的にはこんなイメージでしょうか。
【卒業して5年の赤城クンの場合】
仕事に夢中というか精一杯、社内での人脈づくりに東奔西走、校友会の案内など来ても基本的に無関心、総会に行っても知ってる人もいないし、といって昔の仲間ともそこそこは連絡とりあってるし、会報とかで母校の様子はだいたい分かっているし、高い会費払って参加して挙句の果てに自分の居場所がない...なんてことになったらなどと考えてしまう。
【卒業して10年の榛名サンの場合】
結婚して愛する夫と可愛い2人の子供に恵まれ忙しい中にも充実した幸せな毎日、京都での青春時代を思いだしながら楽しい一時を...なんて校友会からの案内が来ても、現実の幸せに勝るものなしといった感じ、というかホンネのところでは、夫に小さな子供を頼んでいそいそと出かけるのもチョット気がひけるかなぁ?でも校友会にもチョッピリ興味あり?という感じ。
【卒業して20年の浅間クンの場合】
社内でも中間管理職として知識・経験の蓄積、人脈の構築もできてきた。大学時代の仲間とたまに会って、母校の様子について情報交換したり、また、色々な場面で自分のポジションが気になってくる年代でもある。対外的な人脈に興味が湧いてきて、今まで経験しなかった自分探しの旅に出てみたくなるのもこの頃か?校友会に関心が出てくるのもだいたいこの頃か?
校友会を一つのオーケストラに例えた場合、100名を超えるオーケストラ...といってもそれは各パート・セクションのそれぞれの集合体であり、緻密な練習を重ねた高度なアンサンブルの集合体である。弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器とあり、各プレーヤーの個性や能力を見極めつつそのサウンドを一貫性のある安定した響きにまとめていくのは大変な作業である。校友会におきかえると会長は指揮者、幹事長はコンサートマスターといったところでしょうか。各パート・セクションのバランスが悪く、練習も不十分で本番前の音合わせも出来ていないようでは、しょせん良い演奏、校友会運営など期待できるわけはありません。小さなアンサンブルを丁寧にまとめていく作業、いうなれば校友会内にある仲間同士、職域、地域などさまざまな多くの会員が関わっている小集団を一つ一つ大切にしていく作業、その集合体が年に一度の総会であると考えれば良いでしょうか。お花見良し、納涼会良し、ゴルフコンペ良し、紅葉狩り良し、忘年会良し、ただし、それがいつも役員中心の一握りの特化されたメンバーによるものであったら、それは数あるグループの中の小さな一集団活動と同じ、だったら、いっそのこと総会の実行委員を持ち回りでやれば良い。幹事年を決めてスタートし、毎回年度を下げていき会員の多くのメンバーが校友会というものを意識しつつ関わっていく状況をつくっていけば良い、現実的には困難な問題もあるが、要は閉塞感からの脱却、透明感ある開かれた校友会へのプロセスと考えることが大切である。総会の開催通知を出しても返事があるのはせいぜい20%程度、年会費納入も思うにまかせず、総会出席者も一ケタ台、私など、「校友会って?...その魅力に迫る」どころか、自ら「魅力ならぬ...微力」を痛感することもしばしばである。
実は10年前まで、群馬県は全国で唯一校友会が存在しない都道府県であった。そこには、それなりの事情や背景、地域性や県民性といったものが存在していたのであるが、その辺りもふまえた中で、次回は、設立時の発起人代表でもある石橋会長に「花も実もある群馬県100年校友会」その設立経緯と目指すところについて述べていただきますのでよろしくお願いいたします。
広報委員長 坂東太郎
1月8日(月・祝)、舞台をさいたま市からつくば市に移して開催された第4回全日本大学女子選抜駅伝競走大会(6区間30.67キロ)において、立命館大学体育会女子陸上競技部が1時間40分17秒のタイムで優勝を飾り、第1回大会から続く4連覇を達成した。
(...観戦を終えて)
スタート直前、立命応援団のホントすぐ後ろほとんど誰も気づかなかったと思いますが、十倉コーチと1区樋口選手を発見しました。えっ、何でここにいるの?...とても緊張しているというか集中している様子で、さすがのボクも「がんばってください」と囁くように声をかけるのが精一杯でした。3区の中間点付近で(実は個人的にはファンの)名城大中尾真理子選手が迫っていた時、「小島一恵ぇー、つくばおろしはキミの味方だぁー!」と日テレおやじなみに声を張り上げていたのもやはりボクであります。その直後から2位との差をぐいぐい拡げていったのはご存知のところです(ホントですョ)。杜の都の妖精が樋口さんなら、つくばの森はさしづめ後藤ワールドといったところでしょうか。後藤さん才上さん三浦さん矢口さん小中さん山本さん、そして何といっても高橋さん、君たちはホントに素晴しい4回生でした。オメデトウ!そしてありがとう。
(...ところで駅伝時評って、ナニ?)
駅伝時評なるものがあり、最後の部分は以下の通りである。
【それにしても……。全日本大学女子選抜駅伝なるものを開催する意味は、いったいどこにあるのだろうか。観戦しながら、わけもなく、ふと、考え込んでしまった。出場20チームのうち、学連選抜8チームも出場する。1チームぐらいならいいとしても、選抜チームが8チームも出るような大会は、とてもチャンピオンシップの大会とはいえないのである。総距離も区間数も全日本とそれほど大差がない。男子の大学駅伝の場合、出雲、全日本、箱根……と3つあるが、総距離も区間数もまったくちがっている。大会そのものの性格が、それぞれ大きくちがっているのである。
それにくらべると、女子選抜駅伝は、存在理由がいまひとつ希薄で、現状でみるかぎりコンセプト不明の大会としかいいようがない。】
一体、これを書いた人は事前にきちんときめ細かく取材し、レース本番もどの地点でどんな視点で見ていたのだろうか?まさか、テレビ観戦ではないだろうが...。「つくばおろし」を肌で感じながら自然と向かいあい自分と闘い相手と闘い、そんな選手の姿を見て一喜一憂するのが駅伝レースの醍醐味ではないだろうか?ボクも小学生の頃、田舎の駅伝大会に出てコース途中で地域のおじさんやおばさんたちが「ガンバレー!」と声をかけてくれたことにとても勇気づけられ元気をもらえたことを今でも良く覚えている。駆けてくる選手たちに直接声をかけることで自分たちも走っている自分たちも参加してるんだ、そんな気持ちにさせられる、そんな単純な感動の共有で良いのではないだろうか?
(...観戦を終えて、チョット生意気ですが)
レース終了後は競技場内の佐藤絵里選手(名城大)に注目していた。淡々とした表情で、勝った負けたというより思うように走れなかった自分に自問自答しているように見えた。ボクはレース前、(距離の短い高速駅伝であり)どこかのチームが先行ぶっちぎりと予想した。名城大だとすれば1区佐藤絵里選手の大胆起用、立命館だとすれば...(実は、樋口選手の予想ではなかったが)。名城大は総合力で圧倒的優位に立つ立命館に勝つためには1区で先行し3区中尾真理子選手で立命館の追走をあきらめさせる展開に持っていくべきであった。中尾さんは追い上げるというよりトップで襷を受けるとさらなる力を発揮するタイプの選手であることを考えるとそこに名城大の不運があった。アンカー勝負とのシナリオではあったのだろうが肝心のチームに勢いがつかないまま名城大は陸上競技場のゴールをむかえてしまった。とはいえ、グラウンド内での佐藤絵里選手の存在は際立っていた(ように思う)。彼女の存在で立命館4連覇はいっそう輝きを増すこととなった。来るべきシーズンの女子大生ランナーたちのさらなる活躍を期待したい。

12月9日(土)午後4時から、東京大手町のパレスホテル地階「ゴールデンルーム」で東京校友会が「校友大会OLD&NEW-時空を超えて-」を開催した(参加者数約100名)。司会は、木村和生常任幹事(1990理院)。東京メンネルコールの校歌斉唱、住野公一会長の開会挨拶に続いて、住野会長を議長に総会議事を行い、佐藤修幹事長(1974経)の会務報告、辻本寛三監事(1958理)の監査報告を拍手で承認した。続いて学園、校友会本部、関東各県校友会からの来賓を代表して薬師寺公夫副総長、渡邉申孝会本部副会長から祝辞が述べられた。なお、会場には、河原四郎前校友会本部会長、中野雅博APU副学長、竹本慎也APU校友会会長ら多数の来賓が参加した。志垣校友会本部事務局長が渡邉副会長の「来年は東京で校友大会を開催する」旨の発言を補足し、2007年11月4日(日)に東京大手町において本部主催の校友大会を開催する計画を紹介すると、会場には待ちかねた企画の提起に期待の歓声が上がった。この後、東京大空襲の被災地中心部を故郷とする安齋育郎立命館大学国際平和ミュージアム館長が、ガイガーカウンターを片手に登場、「核問題と日本の政治を斬る」を題しまさに「立て板に水」の記念講演会を行った。懇親会の冒頭には、デュークズウォークインターナショナルのみのわ愛さん(2001産)が登場、参加者の一部はワイシャツの裾をはだけつつウォーキング指導を受けた。乾杯のご発声は、例年通り最高齢の森尾正さん(1952法)と最若手の柿島理恵子さん(2006APU)。歓談が進み、千葉山貴公さん(2001文)の歌謡ミニライブに続いてお馴染みの抽選会が始まると会場には特別ゲストとして読売巨人軍の清武英利(1975経)が登場した。「立命館のエース金刀投手を受け入れて必勝と誓う」とのご挨拶に会場の盛り上がりはピークに達した。清武代表ご提供の高橋由伸選手のサイン入りバットなど巨人軍関係賞品の抽選も行われ、そのバットが大の巨人ファン住野会長の手に渡り小躍りする姿には会場から羨望のまなざしが送られた。最後は、全員でグレーター立命を合唱して次年度校友大会に思いを馳せつつ今年度の大会を終了した。

11月21日(火)、硬式野球部金刃憲人投手(産業社会学部4回生)がプロ野球ドラフト会議(大学生・社会人ほか選択会議)において、希望入団枠獲得選手として、読売ジャイアンツから指名を受けた。14時から行われた記者会見では、硬式野球部松岡憲次監督に連絡が入り、読売ジャイアンツより正式に希望入団枠での獲得が伝えられた。金刃投手は「ほっとしました。試合を作れるような先発投手としてがんばりたいです。自信のある球種はストレート。プロでは新人賞も取りたい。2ケタ勝利も目指したい」と緊張した面持ちで抱負を述べた。しかし、記者会見後、駆けつけたチームメートに迎えられると笑顔がこぼれ、マスコミに囲まれる中、胴上げが行われた。金刃投手は、甲子園出場経験は無いものの、大学3回生時には関西学生リーグ対京都大学戦でノーヒットノーランを達成し、大学通算では24勝するなど、大学球界を代表する投手。今後の活躍に期待が寄せられる。
【略歴】
生年月日:1984年4月10日
出身地:兵庫県尼崎市
身長・体重:177cm・83kg前後
血液型:B
球歴:尼崎市立尼崎高等学校‐立命館大学‐読売ジャイアンツ(2006年大学・社会人ドラフト希望入団枠)
投打:左投左打
【エピソード】
園和北小1年時に「園和北フレンズ」(軟式)に入団以来、ずっと投手。6年時に全国優勝。園田中時代はボーイズリーグ「兵庫尼崎」に在籍。市立尼崎高校2年冬に甲子園未出場ながら高校全日本台湾遠征メンバーに選出されると遠征でMVPを受賞する活躍。3年夏の兵庫大会、金刃の左腕は黄金の刃となる。2回戦・伊和高戦、初回先頭打者からの7者連続三振含む17奪三振完封で自己最速MAX141kmを計測(7回コールド)で下すと、3回戦・明石高専10-0(登板なし)、4回戦・村野工業6-1、5回戦・夢野台4-2、準々決勝・東洋大姫路3-0。登板した試合で2点以上取られることはなく選抜優勝・報徳学園を破る一番手と目されたが準決勝・神戸国際大付戦で9回裏に6点差を逆転され、甲子園のマウンドに立つことなく金刃の夏は終わった。高校卒業後は立命大へ。大学1年秋、京大1回戦にてリリーフで大学初登板、続く関大戦で初先発。立命の1年生投手がリーグ戦登板を果たしたのは96年秋の田中総司(元ダイエー)以来異例中の異例ともいう事態である(立命は投手出身の松岡監督独自の投手育成プログラムにより、原則として1年生投手は1年間体力作りに専念指せるため実戦登板は早くても秋の新人戦となる。そのためこの時の金刃の起用がいかに異例中の異例であるかが分かる。ちなみに金刃の同学年の多田文彦投手もこのシーズンデビュー)。近大戦では1-0の初完封勝利。最終節・同志社大戦では1失点完投勝利。絶対に落とせない大事な試合でも先発を任されるなどベンチからの信頼も厚く、エースとして立派な活躍を見せたシーズンであった。大学2年の春、リーグ優勝し大学選手権出場。初めて神宮のマウンドを踏む。初戦で徳山大学に0-4で敗れた。MAX144kmを出す。3年の秋には、京大戦にてノーヒットノーランを達成している。

2006年10月27日(金)の理事会において、現・長田豊臣総長の任期満了にともなう次期総長に川口清史教授(政策科学部・政策科学部長)の就任が決定しました(任期:2007年1月1日より4年間)。
総長の任期は4年、2期まで再選が可能です。現・長田豊臣総長は、1999年1月1日に就任、2006年12月31日をもって2期8年の任期を満了します。
1.次期立命館総長(立命館大学長を兼ねる)
川口 清史(立命館大学政策科学部教授・政策科学部長・政策科学研究科長)61歳
任期 2007年1月1日より4年間
2.次期総長・川口教授のプロフィール
【氏 名】 川口 清史 (かわぐち きよふみ)
【現 職】 立命館大学政策科学部教授・博士(経済学・京都大学)
理事・評議員・政策科学部長・政策科学研究科長
【生年月日】 1945年8月31日(61歳)
【専門分野】 経済学(経済・社会システム、経済事情および政策学)
【最終学歴】 京都大学大学院経済学研究科博士課程・博士(経済学)
【所属学会】 国際第3セクター学会、国際公共経済学会、社会・経済システム学会
日本協同組合学会、日本NPO学会、ほか
【現在の学外の学会等の役職】
国際公共経済学会理事、くらしと協同の研究所理事長、財団法人生協総合研究所理事
【主要著作】
「非営利セクターと協同組合」、日本経済評論社、1994年
「ヨーロッパの福祉ミックスと非営利・協同組織」、大月書店、1999年
「市民がつくるくらしのセーフティネット」(共編著)、日本評論社、2004年
「よくわかるNPO・ボランティア」(共編著)、ミネルヴァ書房、2005年

10月24日(火)衣笠キャンパスにおいて、2006年度後期知事リレー講義第4回を行い、群馬県の小寺弘之知事を迎え、「君の力は∞」をテーマに講義を行った。冒頭に小寺知事は、群馬県の豊かな自然や豊富な温泉、全国1位の工場立地数といった県の特徴について紹介した。
地方自治に関して、国と地方の事務量と税収の比率が逆転していることを取り上げ、三位一体の改革によって国と地方との税収の比率を修正することの意義について力説。さらに道州制にも言及して、「国と地方との仕事をどのように分けるのか、権限はどうなるのかなどの内容を詰めずに、どの県とどの県を一緒にするのかといった議論だけを行うのは時期尚早だ。本来の道州制は国家的な変革であり、連邦制なども含めた最終的な国家像について研究したうえでの議論が必要だ」との自説を展開した。
そして、次世代を担う学生達への期待についても語り、「与えられた課題に適応するだけでなく、新しいものをクリエイトしていってほしい」と会場内の学生へ訴えた。「おとなはだれも子供だった」という、童話「星の王子さま」の台詞を引用しつつ、小寺知事は「先入観に染まらず社会と向き合うことが必要だ」と述べ、体力と精神力がピークとなる40歳代を目標に、いま何をすべきなのか考えてほしいと学生達へ語りかけた。
最後の質疑応答では、「子供を育てるなら群馬県」というキャッチコピーで進められている少子化対策などについても語った。
小寺知事は講義で群馬県政や地方自治に関する事柄だけでなく、若い世代のこれからの「生き方」について熱く語り、聴講者たちは真剣な面持ちで聞き入っていた。
