立命館大学校友会 校友会未来人財育成基金

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プレ10周年企画「ザ・校友会」【第2回】「花も実もある群馬県100年校友会」2007 年 3 月 5 日

【産社の愛すべき仲間たち】
オレたち同期って、こうして会ってるから良いけど、群馬全体では立命の出身者ってどのくらいなのかなぁ?100人200人?いや、もっと...いるのかなぁ?」「だいいち、そんなのどこに聞いたらわかるんだぃ?卒業生の会なんてそもそもあんのかなぁ?」「そのくらいあるんじゃないの?(...実は当時、群馬県だけ全国で唯一!校友会が存在していなかった。)」「立命の卒業生っていうと、ヤクルトの古田、おしんの小林綾子、TBSの何ていったかなぁ?女子アナ...あとはワシら(笑)、ウーン...そんなところかしか知らんなぁ。」「オィ、石橋!調べてみろや(えっ?...なんでボクが)」
平成7年、師走のあわただしい高崎の街で久しぶりに再会した昭和45年産業社会学部入学組の須藤哲男(桐生高)馬場康夫(前橋高)針塚均(渋川高)松下宏(中央高)そしてボク(高崎高)の5人、立命館を卒業して20年、学生の時から皆そうだったが自己主張がやたら強くてわがまま、他人のことなどまるでお構いなしの懲りない(笑)面々である。でも、みんな仕事には真面目で超がつくほど一生懸命、奥さんや子供を何よりも大切にする、普段から色々なことを相談したりされたりの気のおけない仲間たちであり、今ふうに言えば愛すべきちょいワルおやじユニットと言ったところか。
【校友課ってどんなとこ?】
まぁ、そんな感じでとにかく大学の(それも...自分たちの出た大学の)様子がわからない。恐る恐る(笑)...大学へ電話してみることとなった。校友課というところで課長さんという方が電話に出られた。あまり何か難しそうな話になったら「あっ..いいです。」なんて言って直ぐ切るつもりだった。課長さんの名前は友藤さんといい、その時、校友会のことについて実に親切にわかりやすく教えていただいた、すごく感激した。待てョ待てョ...立命館なんて京都なんて千年の都だか何だか言うけどこんな身近なもんだったんだ?その瞬間、卒業してからの20年の月日、遠くて...やはり遠かった京都の街の学生時代の日常的な光景が頭の中をチラツキはじめたのである。群馬が全国で唯一校友会が存在しないことも知らされ、こうなると(元応援団ならずとも)もう止まらない止められない(笑)、半年後には高崎市とその周辺の校友さんを中心に40名の卒業生が出席し「高崎立命会」が立ち上がったのである。時に平成8年6月22日、現在の「群馬県校友会(当時は群馬県支部と呼んだ)」が立ち上がるその時平成9年7月6日のおよそ1年前のことであった。友藤マジック(笑)の夢見心地から醒めぬままに...一緒に群馬県支部を立ち上げましょう、友藤課長はことあるごとに校友会の素晴しさ、校友会の大切さを熱く語られていた。
【上野村のお姫さま登場!】
そんな日々が続いた夏の終りのある日のこと、勤め先の銀行のデスクに校友という若いお嬢さんから一本の電話が入った。「今井あゆみです、お手伝いできることがあったら言ってください、一緒に支部設立やっていきましょう!」(実名を出してしまって良いのかわからないが...笑)この電話はうれしかった。当時の彼女はあの日航機事故のあった上野村に住んでおり、高崎から車でもたっぷり2時間、群馬は広いそして校友会設立の気運もいよいよワイドになってきたのかという思い、そして何よりも女性が関心を持ってくれていることがわかりうれしかった。以後、何かと彼女と二人三脚でやっていくこととなる。現在、彼女は同じ職場だった(とてもステキな)ご主人と結ばれ2人のお子さんにも恵まれ、若いお母さん世代を代表するかたちで校友会幹事として活躍していただいている。
【そして...その時、校友会誕生!】
県の土木部技監で退職され後に初代支部長となられる高野久さんはじめ学校の先生、ウルトラクイズの元チャンピオン、高島屋のイケメンくん、地元新聞社のプリンスくん、水沢うどんの老舗の御曹子、発会式で司会をつとめたマドンナさんなど校友もなかなかのタレント揃いであり、準備作業も楽しく群馬県校友会が立ち上がるその時に向け機は熟し、そして、いよいよ「平成の時代の発足にふさわしい、世代を超えた花も実もある透明感ある開かれた校友会」を基本的な考え方とする全国最後発の群馬県支部(後の群馬県校友会)が誕生したのであった。時に平成9年7月6日、梅雨の晴れ間の暑かったその日は、しかし、京都と群馬の架け橋が結ばれた歴史的な一日となった。ボクは当時46才、45年入学組の同期会から高崎立命会を経て支部立ち上げ、まさにその時歴史は大きく動いたのであった。ところが、実はその時すでに...意外にも発会式の華やかな会場の雰囲気とは裏腹にボクの胸の中は不安でいっぱいであった。当日の100名近い出席者の母校への溢れんばかりの熱気から当面の支部運営は安定して推移していくものと思われたが、発会式にいたるまでのプロセスはその時点では既に過去のものであり夢物語であり、それを今後将来にわたりどう活かしていくのか?具体的には誰がどんな方向性を持ってやっていくのか?が喫緊といえる課題であったが、勢いだけで継続できるほど組織たるもの甘くは無い、やがて時の経過とともにその不安は現実のものとなっていった。それは、今考えてもホントある些細な取るに足らない勘違いからはじまったのであるが、些細なことで浮き足立つほど当時はやはり未成熟な組織であったのだろう...やがて、それからいくつかの季節が過ぎボクは校友会からしばらくの間距離を置くこととなった。
【校友会、その光と影】
そして、あっという間に10年が経過した。その間、校友会に関連したボクにとっての出来事というと(実は、ボクには娘が2人いて)長女のほうは選択する学部がなく止むを得なかったが、二女にはできたら立命館に進学して欲しいと考えていたのだが、(ボクが校友会と距離を置くことになっていった時期から)現実的な選択肢としてそれが消えていってしまったのである。或る日突然...わが家の中で立命館への進学について誰も話をしなくなってしまったのである。その間の事情については墓場まで持っていく類(たぐい)の話...であるが、あのBKCのグラウンドをそして大学女子駅伝で走っていたかもしれない娘の姿を想像するに、現在(他の)大学の3年生で卒業まであと1年、ボクにとっての校友会の光と影の部分の中であと1年つらい影の部分を引きづっていかなくてはならないのである。たぶん、ボクが校友会とそれほど関わっていなかったら恐らく立命館に入学していた(可能性は高かった)と思う。それは皮肉な話ではあるが、現実でもある。
【群馬県校友会の目指すところ】
2年前、ホームページ開設にあたり会長挨拶の中で「立命館を卒業した良識あり未来ある会員さんたちと、真摯に向かい合い、京都と群馬の架け橋を担いつつ、真の信頼関係の構築を図ることをその目的とする」とした。一部の校友会オタクは論外として、(ボクも含め特に大きくスポットを浴びることもまずない)ほとんどの会員さんにとっての校友会活動に対する期待度、関心度、満足度に対しもっと焦点を当てるべきと考えている。校友会活動の中で校友一人一人の居場所や踊れる場があるのかないのかきちんと丁寧に検証すべきであるし、前回、広報委員長が述べているように、「いっそのこと総会の実行委員を持ち回りでやれば良い。幹事年を決めてスタートし、毎回年度を下げていき会員の多くのメンバーが校友会というものを意識しつつ関わっていく状況をつくっていけば良い」というのも、彼らしい現実的な発想であろう。校友会は誰のものでもない、校友一人一人がそれぞれのレベルで満足感を得られるもの、校友満足度が高いものでなくてはならない。また、50才を過ぎたいわゆるシニア世代の方々には積極的に自らの知識や経験の蓄積を校友会というステージを通して何らかの形で還元していっていただきたい、次の世代の校友さんたちに伝えていっていただきたい、と思う。
【校友会は文化、そして受け継がれるもの】
そこで初めて世代を超えた花も実もある100年続く校友会、いわゆる文化としてのイメージの校友会が視野に入ってくるのだと思う。文化は受け継いでいくもの受け継がれるものであり、受け継がれるものが文化である、とボクは考える。役員会や幹事会が、活性化できない原因をつくっている人たちによる活性化するための議論の場であってはならないし、もはや、そんな感覚のマヒを論じている時代では無い。群馬県校友会の幹事さんたちには相当厳しい注文をつけているが、「明るい自己犠牲」の精神を忘れずにやっていけば、彼らが長い人生の中で校友会活動から得られるものは結果として少なくないはずである。そして、立命館大学を卒業し、母校との係わり合いの中でまだまだ学べるもの吸収できるものがあることを知るのは素晴しいことであるし、校友会はまさしく大学の学びの精神の延長線上であると考える。校友会は文化...とするならば、色々な人たちがいて色々な考えがあって色々な花が咲く、そして文化は受け継がれるものであると考える。

会長 石橋博 (写真は昭和45年に当時の広小路学生会館で)


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