遠く平安の御世、宇多天皇が夏に雪を見たいと絹布をかけられたことがその命名のゆかりとされる衣笠山(きぬかけやま)。衣笠キャンパスは、東北に金閣寺、西北に龍安寺、南に足利家の菩提寺である等持院とはるかな歴史と伝統をもつ寺院群に囲まれています。とくに等持院は、美しい庭園をもち、立命館の名誉館友である作家水上勉さんの「雁の寺」で知られる名刹です。そしてその墓地は、衣笠キャンパスの南の境内地と北の衣笠山裾野に展開しています。南側の墓地には京都の映画産業華やかなりし頃を偲ばせる「マキノ省三」氏の銅像が建っています。かつて衣笠キャンパスはマキノ映画の撮影所として脚光を浴びていました。当時は周辺には映画関係者が多数住み、校友の長門裕之さんは弟の津川雅彦さんと共に現在も龍安寺の檀家をつとめられています。さて、北側の墓地で存心館を背後から守るように建つのは、学園創立者中川小十郎夫妻のお墓です。中川は、1866(慶応2)年に京都に生まれ、帝国大学法科大学政治学科を卒業後文部省へ入省。1895年からは時の文相西園寺公望の秘書官として京都帝国大学の創設にかかわり初代の事務局長を務めます。西園寺の下野と共に退官、実業界に身を転じ、加島屋(現在の大同生命)などの再興に活躍しますが、1900(明治33)年に京都加茂川べりの「清輝楼」で京都法政学校を開校します。これが立命館の開学で後に西園寺が1869(明治2)年に開いた私塾「立命館」の名跡を継ぐことになります。中川は西園寺の総理大臣就任を受け、総理大臣秘書官、樺太庁長官、台湾銀行頭取などを務め、貴族院議員終身議員に勅撰され西園寺の秘書官として活躍します。先に再建披露された静岡市清水の興津坐漁荘には興津駅で列車に乗る西園寺の傍らに中川の姿が映る写真が展示されています。その中川は1944(昭和19)年に亡くなり、現在は等持院の墓地に埋葬され、後輩達を見守っています。 <等持院墓地の学園創立者中川小十郎夫妻のお墓> | |
|