8月7日(金)豊川市諏訪墓地において、立命館大学愛知県校友会東三河支部が、豊川海軍工廠戦没学生慰霊祭を執り行った。
1945年8月7日午前10時30分、B29爆撃機124機、P51戦闘機45機(豊川市観光協会資料から抜粋)が、当時東洋一の規模といわれた豊川海軍工廠を空襲し、勤労動員していた中学生、女学生、学生等約2500名もの尊い命を奪った。その中には、立命館大学の4名の学生(本田義次氏、津野森正氏、石川厳氏、相原和男氏)が含まれており、戦後その同級生の方々は「立命館大学22年専経同窓会」を組織し、4名の慰霊に努めて来られた。
33回忌に合わせて作成された慰霊碑は、豊川市のご配慮のもと、他大学、高等女学校等の慰霊碑と共に、諏訪墓地に設置された(慰霊碑の追悼文は末川博元総長。除幕式には細野武男元総長もご臨席)。以来、毎年同墓地にて慰霊祭を執り行ってきた。ところがその後同級生の方々の高齢化に伴い、徐々に慰霊祭の存続が危ぶまれ始め、10年前からは東三河支部が事業の一環として慰霊祭のサポートに取り組んできた。
今回、被災から70年の節目を迎えるに当たり、母校立命館大学から吉田美喜夫総長をお迎えし、同級生代表の黒﨑德之助氏(’47年専経)もご参列のもと、盛大に執り行った。
慰霊祭は、山田裕啓副支部長が司会進行し、先ず全員で校歌を斉唱。そして空襲が始まった午前10時30分に同市内に一斉に鳴り響くサイレンに合わせて黙祷を行い、吉田総長が追悼の辞を捧げた。吉田総長は「8月7日は、広島に原爆が投下された翌日、ポツダム宣言を受諾する1週間前である。もう1週間終戦が早かったらと思うと、運命の過酷さを感じずにはいられない」と述べられ、さらに「戦時中に3000名の学生を戦地に送り、1000名の学生が帰ってこなかった痛苦の経験を踏まえ、戦後立命館は『平和と民主主義』を教学理念とし、その具現化として92年には国際平和ミュージアムを設置した。本学の学生はもとより、全国から京都を訪れる修学旅行生たち等、多くの方々に平和の大切さを訴えている。今日のように平和の危うさが危惧される場合においても、しっかりとした考え方をもった人材を育成していく。そのことが立命館の責務であり、尊い命を奪われた方々の犠牲に報いることになると思う」と括られた。続いて小川公男支部長が「慰霊祭は東三河支部の使命である。何代にもわたって継承していきたい」と述べた、そして最後に黒﨑代表が「お国のためとはいえ、もう1週間終戦が早かったら、いやあんな悲惨な戦争がなかったら、前途有望な若き命を散らすことも無かったろうと無念の涙を止めることができません」と涙を流しながら追悼の辞を読まれ始めると、参列者の中にも嗚咽が聞こえるなど、張り詰めた雰囲気となった。さらに黒﨑代表は、この間慰霊碑および墓地の保守管理、そして慰霊祭の開催等をサポートしてきた東三河支部の方々への謝辞を述べられ、「4名の英霊が安らかならんこと、この世界の平和と繁栄を祈って追悼の辞といたします」と括られた。その後、参加者全員で献花をし、閉式となった。閉式後は、戦後合同で慰霊祭を執り行ってきた松操高等女学校の慰霊碑に参列者全員で参拝し、70年という歴史の重みと、平和への願いを共有した。
なお、校友会本部事務局からは事務局長の大場が参列した。