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竜馬の時代2010 年 5 月 19 日

023   写真は、石橋会長と平成の龍馬?たち

「竜馬ブーム」であるが、明治維新の立役者といわれる坂本龍馬とはどんな人物だったのか?司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で一躍メジャーとなった龍馬だが、彼の生きた幕末とはどんな時代だったのか?龍馬が亡くなる前の五年間ほどは、徳川幕府から新政府へと時代が大きく変わろうとするまさに激動の渦中にあった。

文久二年の「寺田屋事件(寺田屋騒動)」は、薩摩藩尊皇派の粛清事件だが、後のいわゆる龍馬襲撃の寺田屋遭難とは異なるものである。元冶元年の「池田屋事件」は、新撰組が潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃した事件であり、その「池田屋事件」 で多数の尊攘志士を失った長州藩が“薩賊会奸”を掲げて挙兵したのが、直後の「禁門の変」である。坂本龍馬襲撃事件として知られる「寺田屋事件(寺田屋遭難)」は、慶応二年の伏見奉行によるものとされるが、薩摩藩による陰謀説もささやかれる中、翌年の「近江屋事件」と同じく、京都見廻組実行説と考えるのが通説のようである。                                                                           

龍馬が死んだのは、慶応三年の「近江屋事件」いわゆる坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件である。龍馬の最期は、寺田屋でも池田屋でもなく、京都河原町蛸薬師の醤油屋・近江屋井口新助邸である。「寺田屋事件(寺田屋遭難)」同様に、実行犯は京都見廻組とされるが、当時いち早く現場に駆けつけた土佐藩士谷干城が決めつけたと言われる新撰組説、西郷や大久保らとの意見の相違が背景にあったと言われる薩摩藩陰謀説、果ては死の商人グラバーやバークスの名まで上がるイギリス陰謀説、また、その目的においても中岡暗殺を狙ったもので龍馬巻き添え説があるなど謎めいた部分も多く、歴史家や小説家の創造力を掻き立て、数々の興味ある史観やフィクションを生み出してきているのは周知のところである。

龍馬の残したものとして「船中八策」が知られ、後の「五箇条の御誓文」や「明治憲法」に影響を与えたと言われているが、大政奉還から政治・軍事・経済にいたるまでの内容に彼がどれだけ関わっていたのかは実は不明とされている。同様に、薩長同盟の際の影響力、「海援隊」やフリーメイソンとの関わり、また、西郷や勝の都合の良いスポークスマンに過ぎなかったのではないかなど検証したい興味ある史実がたくさんある。寺田屋事件の際にお龍が風呂から裸のまま裏階段を駆け上がったとか、日本最初の新婚旅行をしたとかそういったことはさておき、「竜馬ブーム」と言われる今こそ、龍馬についてあらためて関心を持ち、学び、自分なりの史観といえるものを持つべきではないだろうか?

広報委員長 坂東太郎


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