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特別寄稿 「わだつみの像と大島渚―広小路学舎で講演を聴いた体験談―」眞島 正臣(昭和40年 文卒)2023年11月9日

1,わだつみの像は苦難の末に校庭に立てられた
私は、昭和36年に立命館大学文学部に入学した。当時の文学部校舎は、広小路校舎の清心館であった。
校庭に戦没学生慰霊のわだつみの像が立っていて、戦後の新しい時代の大学という空間であるような気がした。
年上の兄弟がいたわけではないので、わだつみの像がなぜここに立てられているかも知らなかった。われわれの少し前の世代が民主的なキャンパスを獲得するために多くの犠牲者を出して、あのキャンパスが生み出されていたことに無自覚であった。

2,昭和36年入学の新学期に大島渚氏が講演
入学して間もない頃、大講堂にぎっしり詰めかけた聴衆を前に、大島渚氏が講演をした。ネットの年譜で確認したが、「『 日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、 1961年(昭和36年)に同社を退社。」(注1)とあるので、フリーの身分であったようだ。大島氏の前年度の活躍は、めざましく『青春残酷物語』や『太陽の墓場』のヒットにより「松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手」(注2)と知られ、若手映画監督の英雄であった。壇上の大島氏は、きちんとしたスーツ姿で、なぜ、自分がわだつみの像を立命館大学へ運ぶことになり、その後、荒神橋の事件にかかわったかを過去になった体験を詳細に語った。

3,学園復興会議と荒神橋事件が講演の演題
名前だけ聞いていたが背景までは、知らなかった荒神橋事件のきっかけは、1953年、京都・同志社・立命館の3大学を会場に5日間、「明るい学園を復興」をスローガンとした大学自治への国家介入を撥ね退ける集会が計画された。「わだつみの像」は、いざこざがあったが末川博総長の尽力で立命館大学へ受け入れられることになったという。(注3)復興会議の第4日目11月11日、わだつみの像は、立命館に到着したがわだつみの像歓迎デモに対して京都市警は、「不正デモ」とみなし、学生ともみあいになり当時、木製の荒神橋が倒れ、
学生が落下するなどがあり、警官が学生に襲いかかる事件になった。粗い説明で申し訳ないが、当日の大島氏の講演は、義憤を感じながらも冷静な態度であった。

4,立命館大があの時大島渚氏を招いた意義
レッドパージなどの影響で戦後民主主義が戦時期に逆戻りしたような重苦しい時代の大学自治を正常化しようとした立命館大学の学生自治会が大島渚を招聘したことは、わたしのようなノンポリには、意義ある啓蒙だった。
大島渚氏の生き方には、生涯共鳴して励まされて来たので、講演で出会った体験には、感謝している。

(注1)「 大 島 渚ウィキペディア」
(注2)同上
(注3)学園復興会議と「わだつみ像」


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