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特別寄稿   西行 ー歌詠みと愛の漂泊ー    歴史学者 吉村 升平2022年11月15日

「西行」(1118~1205)本名 佐藤義清といっても中々イメージが浮かばないと思います。若くして出家(23才)。その出家の理由がわからないのです。彼の出自は和歌山県の紀の川流域に豊潤な土地を有している武人でもあったのです。経済的にも位階的にも恵まれていた義清の突然の出家は謎なのである。私見を申し上げれば、待賢門院の存在であると思います。たった一度の契りが、彼の人生を大きく変えたのであると思えるのです。西行を苦しめ、涙さそわれ、そして、もえた、彼の生涯があり、思想の源流であったと思えるのです。

その待賢門院との関係が深い京都花園の「法金剛院」にも私は度々訪れました。彼女は幼い頃から白河法皇に可愛がられ鳥羽天皇に嫁ぎ、二人の間には崇徳天皇が誕生、その天皇が保元の乱で謀反人にされ、讃岐に流罪され、それ以後一度も都に戻ることがありませんでした。その崇徳天皇を偲んで西行は讃岐を訪れ、涙して、心身をかけて愛でているのです。

東北地方にも2度も旅を行い、2度目の時は68才にもなっていて、源頼朝に会い、奥州藤原氏に会っているのです。歌を詠み、旅をしての西行の生涯だったのです。

江戸時代中頃の俳人松尾芭蕉は西行が好きで、彼の足跡を丁寧に訪れ、あまたの名句を残しているのは承知のことでしょう。

歌詠みの達人西行との関わりのある史跡として「法金剛院」・「勝持寺」・「川原寺」が私は好きです。是非一度足を運んでほしいです。彼の有名な歌の一つ「願わくは、花の下にて春死なむ、その如月の、望月の頃」味わいのある名歌である。そして73才まで現役の歌詠みであり終焉地川原寺(河内国)で入滅されたのです。

 

歴史学者 吉村 升平(昭和41年 文院 終了)

 

 

ああああ待賢門院


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