会報りつめい293号 デジタルブック
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APRIL 20244NPO法人グリーンリボン推進協会 理事 広島支部長 森もり原はら 大だい紀きれ、心臓移植を受けた森原大紀さん。移植を待つまでの4 年間、胸に補助人工心臓を埋め込み、死と直面する過酷な日々を乗り越えた。幼い頃から活発だった森原さん。小学生の時にレスリングを始め、高校時代には高校総体でベスト8に進出するなど実績を残す。立命館大学でも全国トップクラスの強豪レスリング部で活躍した。3回生で団体戦のレギュラーとなり、西日本学生秋季リーグ戦に初出場するも、森原さんの敗退で連覇を逃した。「その悔しさをバネに、4回生の時、西日本リーグ戦で春・秋ともに優勝できたのはうれしかったです」と思い出を語る。厳しい練習に打ち込む一方で、教職課程も履修。社会・地理歴史・公民の教員免許も取得した。本来なら教員として就職するところだが、森原さんにはどうしても「海外に行きたい」という思いがあった。そこで大学卒業後、カナダ留学を決意する。「『私たちの時代は社会のレールに乗れば、そこに正解があった。でもあなたたちは、自分で解を探さないとね』。母親からそう言われたことがすごく大きかった」と言う。当初は9カ月で帰国する予定だったが、現地の語学学校で英語を習得しながら、カルガリー大学でレスリングも継続し、1年7カ月間、充実した日々を過ごした。病が分かったのは、カナダから帰国後、広島県の私立高校で教員と女子レスリング部監督を務めていた時だった。「病気をしたこともなかったのに、いきなり『心臓移植しか助かる道はない』と告げられた時は、ただただ信じられませんでした。一晩中涙がとめどなく溢れて、誰かが『ドッキリだよ』と言ってくれるのを待っていました」。それでも、自分自身のためというより、家族を悲しませたくないという思いで心臓移植を受けることを決断。しかしすぐに移植がかなうわけではない。補助人工心臓を体に入れて移植を待つ生活は4年にも及んだ。先が見えない中でも森原さんは懸命に前を向き、社会復帰する。通信制高校で教員として働きながら、NPO法人グリーンリボン推進協会で、移植医療の普及啓発活動にも取り組んだ。「日本の臓器提供者数は、先進国の中でも群を抜いて少なく、心臓提供は2023年までは毎年数十件しかありませんでした。そんな現実を、私も自分が病気になるまで知らず、だからこそ多くの人に知ってほしいと思いました」と活動の動機を語る。その一方で「移植を待つということは、人の死を待つことなのではないか。自分が移植を受けてもいいのか」という葛藤にさいなまれた。深い闇に落ちそうになった時に踏みとどまれたのは、多くの人の支えがあったからだという。その中には家族がドナーとなった経験を持つ人からの言葉もあった。「『私の家族は、誰かを救うために亡くなったわけではありません。つらい運命ですが、何もなくなってしまうくらいならと臓器提供を決めました。その延長で救われる命がある。だからあなたは胸を張って生きてほしい』。そう言われて、正々堂々と生きようと思えるようになりました」移植手術後、麻酔からさめて感じたのは、自分の胸から響く心臓の鼓動だった。「他の人の心臓が自分の胸の中で動いていると実感した時、優しさに包まれたような気持ちになりました」と森原さん。「自分だけの人生じゃない。だからこそ大切に生きていきたい」と強く思ったという。長く止まっていた時間が動き出し、それまでできなかったことに挑戦するのにためらいはなかった。念願だった海外生活をかなえるべく、妻リンジーさんの母国イギリスへ渡った。「病気と闘っている間も『もう一度海外に行きたい』という気持ちはずっとあって、その夢が今、ようやくかなったところです。でも大事なのはこれからだと思っています」現在は2人の子どもと家族4人の暮らしを大切にしながら、現地で教員として働くべく、準備を進めている。グリーンリボン推進協会の活動も続けながら、将来はイギリスでもチャリティー活動に携わるという目標を持つ。「病を経た今は、たとえ病気や困難にぶつかっても、それをゼロにしようとするのではなく、うまく付き合うことを考えるようになりました。今あることや周りの人に感謝しながらさまざまなことに挑み、ずっと後に人生を振り返った時に、いい挑戦だったと思いたい」と森原さん。「今が本当のスタートです」と力強く語った。さん(’11経済)自分だけの人生ではない。 だからこそ大切に生きたい。26歳の時、難病の特発性拡張型心筋症と診断さ

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