会報りつめい293号 デジタルブック
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ぎ議APRIL 202410ます。「君たちは今、同じスタートラインに立った。性別も出身大学も関係ない。ここからどれだけ努力するかが全てだ」。そう聞いて、改めて「この銀行で頑張ろう」と心に決めました。しかし現実は、想像した以上に厳しいものでした。社会では、「女性は結婚したら退職して家庭に入るのが幸せ」と考えられていた時代。「仕事をしたい」という私の思いは、職場でもなかなか理解してもらえませんでした。同期の男性行員が次々に営業職になって責任ある仕事を任されていくのを横目で見ながら、私は希望の業務に就くチャンスを得られないまま、3年間を悶々と過ごしました。手を差し伸べてくれたのは、そんな私を間近で見ていた同期や1、2期上の先輩たちでした。「お客さまのところへりん書を書いてみる?」一緒に行ってみる?」「契約に関する稟と声を掛けてくれて、さまざまな仕事を手伝わせてもらうように。それが楽しくて、「もっと役に立ちたい」という気持ちが膨らみました。その代わり、どんな雑用も頼まれれば決して「嫌」と言わず、全て引き受けました。与えられた仕事を一生懸命やっていれば、それを認めて誰かがチャンスを与えてくれる。それが、当行の良いところです。入行6年目には国際営業部に異動。外為や貿易の渉外窓口業務などに携わり、「営業店でなくてもお客さまのビジネスに関われるんだ」と、銀行の仕事の奥深さと面白さを実感しました。入行10年目の1998年に同僚と結婚し、間もなく妊娠。仕事を続けるのか、葛藤したのはこの時でした。当時女性京都マラソンでボランティアをしている様子は結婚や出産で退職する人がほとんどで、周囲のみんなが私を心配して退職を勧めてくれました。でも10年勤めてようやく銀行の仕事の全体像が見えてきたところ。まだ挑戦したことのない仕事が山のようにあって、どうしても「続けたい」という思いが勝っていました。思い切って支店長に相談すると、「その気持ちがあるなら任せなさい。気兼ねなく産休を取れるように人事と掛け合うから」と言って、休職中の後任などバックアップ態勢をつくってくれました。そのおかげで産休・育休を取得できたものの、それまで当行で制度を利用した方を存じず、どのくらい休んでよいのかも分かりません。何より職場に迷惑を掛けたくないという気持ちが強く、結局産後5カ月で、伏見支店の係長として復職しました。その後も、仕事と育児を両立できたとは、とても言えません。現在は変わりましたが、当時は、早朝から夜遅くまで勤務するのが当たり前。子どもを預けられる保育園も見付けられず、途方に暮れていた時、「私たちが面倒を見よう」と申し出てくれたのが、近くに住む私と夫双方の両親でした。その後、娘が小学校を卒業するまで、全面的に子育てをサポートしてくれたおかげで、存分に仕事に打ち込むことができました。それでも、想定外のことは起こるものです。子どもが急な病気で入院した時は、いつも通り仕事をしてから病院に直行し、子どもに添い寝するという生活を1週間続けたこともあります。支店長代理に昇進していた責任感と、「仕事を続ける」という覚悟があったから、乗り越えることができました。もちろん上司に相談すれば、きっと助けてくれただろうと思います。でも当時はどうしても言えませんでした。そう「京銀SDGs私募債未来にエール」寄贈式会社・家族のサポートがあって 会社・家族のサポートがあって 出産後も仕事を続けられた出産後も仕事を続けられた

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