校友会報「りつめい」No.283(2021 JANUARY)
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JANUARY 202110舞台『Holy Night』(撮影:入交佐妃)いそしむようになります。「演劇で生きていく」と決めていた私は、仲間のそんな変化を歯がゆく思っていました。あるとき、「一度就職してから考えたら?」と友達に諭され、悔し紛れに「大学を辞めて役者やろうかな」と口にしたら、予想に反して友達はもちろん、相談したゼミの先生やゼミのメンバーまでが諸手を挙げて応援してくれて。引くに引けなくなって退学届を出し、東京行きの新幹線に乗ってしまいました。1年間、東京の劇団で活動した後京都に戻り、1989年に大学時代の演劇仲間を誘って旗揚げしたのが、「B級プラクティス」(1991年「MONO」に改名)です。初公演の『狂い咲きシネマ』で、最初は友人に脚本を依頼したのですが、色々あって結果的に自分で脚本を仕上げることに。それ以降、役者だけでなく、脚本と演出も手掛けるようになりました。舞台に立って演じることも心が躍るけれど、脚本や演出には、自分の考えた物語で思い通りの舞台を創る面白さがあります。稽古場で、劇団の仲間と意見を出し合いながら芝居を創り上げていくのが、何より楽しかったですね。とはいえ最初の5年余りは観客動員数も伸びず、経済的には苦しい時代が続きました。風向きが変わったのは、1995年、『Holy Night』という作品を上演したときです。舞台に見入るお客さんの真剣な眼差しが、それまでと明らかに違うと感じました。腐らず公演を重ねるうちに、少しずつ実力や経験が蓄積され、この作品でついに花開いたような気がしました。その次の作品『約三十の嘘』は大ヒットを記録。観客は爆発的に増え、MONOの活動は軌道に乗っていきました。しかし本当に苦しかったのは、その後でした。MONOの名が関西から全国へと広がるにつれて、次第にテレビドラマや映画の脚本の依頼が舞い込むようになりました。東京に行く機会も増え、忙しくも充実した日々でしたが、いつの間にか東京での仕事と京都での活動にギャップを感じるようになりました。東京では、有名人などとの一見華やかな交友関係が増える一方、京都ではいまだ経費を切り詰めて稽古する日々。どちらにいても、もう一方の自分の活動を正直に話せないことに、ストレスがたまっていきました。何より怖かったのは、MONOのメンバーにその気持ちを悟られて、関係が壊れてしまうことでした。とうとう耐え切れなくなり、私が選んだのは、どちらからも一度距離を置くこと。ちょうど文化庁の新進芸術家海外研修制度の研修者に選ばれたことを機に、2003年から1年間、ロンドンに留学しました。留学の決意を伝えたとき、テレビドラマ業界の人にはずいぶん引き止められました。「競争の激しい世界だから、帰ってきたとき、土田さんの席はもうないかもしれないよ」と。私自身「今休んだら、きっとテレビドラマの世界では終わりだろう」と最後まで迷いました。今になってみるとそれを振り切って留学して本当に良かったと思います。ロンドンで過ごして一番の変化は、それまでいた世界を初めて外から眺められるようになったこと。ロンドンから見たら、東京も京都もそれほど違いはない。そう気付いたら、一気に楽になりました。帰国後は東京でも京都でも自分を偽らず、ありのままを話せるように。それから今日までMONOのメンバーとは変わらない関係が続いています。苦しかったとき、劇団を辞めて東京の仕事を選んでいたら、今よりずっと良い暮らしをしていたかもしれません。しかし劇団には、長年にわたって築いてきた独自の表現方法やリズムがあり、それは決してお金に換えられないものです。特に私の作品には独特の台せりふ詞回しや「間」があり、どんなにうまい役者が演じても、MONOのメンバーと創るような舞台はできません。演劇がなければ、私にとってどんな仕事も意味はない。そんなかけがえのない演劇と劇団のメンバーに出会えた立命館大学は、私にとって人生のすべての基礎を築くことができた場所でした。自分の劇団で 舞台を創る喜び苦しんだ末に ロンドンで見つけた答え

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