会報りつめい291号 デジタルブック
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AUGUST 20234村上 このたび新校友会長に就任されました。これからよろしくお願いいたします。門川 「立命館大学があったからこそ今日の私がある」との思いがあるので、私でお役に立てるならとお引き受けしたものの、40万人におよぶ校友数や100年もの偉大な歴史を伺い、その規模やビジョン・行動指針等の取り組みの尊さに改めて驚き、今さらながら緊張しています。村上 立命館大学との出会いは、どのようなものだったのでしょうか。門川 私が高校時代を過ごした1960年代後半は、学園紛争の真っただ中でした。大学へ行く意味を感じられず、高校卒業と同時に京都市に就職しました。でも教育委員会に配属され、一人ひとりの子どものため、地域の学校のために懸命に頑張っている先輩たちや教育現場の先立命館大学校友会前会長Kenji Murakami村上 2013年に会長になり、私がまず力を入れたのが巻頭特集 │ 特別対談立命館大学校友会 前会長×新会長1947年 愛媛県に生まれる1970年 立命館大学産業社会学部卒業 大和ハウス工業株式会社入社2004年 同社 代表取締役社長2011年 同社 代表取締役副会長2012年 ダイワラクダ工業株式会社 代表取締役会長2013年 立命館大学校友会会長に就任2016年〜2023年3月 住友ゴム工業株式会社 社外取締役生方と出会い、目からうろこが落ちました。大学に行こうと思ったのは、その1年後です。立命館大学に夜間部(二部)があったのが、ありがたかった。入学後は夕方5時20分に職場を出て、自転車で一目散に大学へ行き、9時ごろまで授業を受けたらまた職場に戻って仕事をするという毎日でした。徹夜も多く、土日の休日もほとんどありません。あの激務でよく単位を取れたなとわれながら感心しますが、学ぶことの大切さを立命館大学で教わり、友人も得て充実した学生時代でした。今も市長として休みなく働いているのは、その延長ですね。村上 門川会長に比べると、私は熱心な学生ではありませんでした(笑)。転機は大学4回生の時、父親が急死し、私自身も交通事故で命に関わる大けがをしたことです。そこで性根が据わりました。就職した大和ハウス工業では東京勤務が決まっていたのですが、病弱な母親を抱える家庭環境を説明し、故郷に近い岡山に赴任先を変更してもらいました。当時、岡山では西日本最大と言われた大規模な団地の開発中だったのです。そこでやんちゃな私を厳しくも愛情を持って鍛えてくれる素晴らしい上司・先輩に恵まれ、意気に感じて頑張れたと思います。仕事が忙しかったこともあって就職後は大学も校友会も遠い存在になっていましたが、岡山から山口、広島と転勤するたび赴任地に母校愛の強い先輩がいて、「校友会に行こう」と熱心に誘われました。渋々ながら参加しているうちに、次第に立命館大学のOB・OGは根性もあり、母校愛が強く仲間思いで良いなと感じることが多くなりました。何より国際関係学部ができ、びわこ・くさつキャンパスや立命館アジア太平洋大学、さらに大阪いばらきキャンパスの開設などの大改革で大学がさらに発展し、またスポーツも強くなり後輩たちがいろんな場所で輝いていることを知るとうれしくなって、だんだん校友会の活動に力が入り、気が付いたら会長になっていたというわけです。村上健治立命館とのつながりを 振り返って母校愛が 尊い取り組みにつながる

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